AYAKA -生きるということ-

 

あやかいなぁ~~~~~!

 

 

2023年夏アニメの「AYAKA -あやか-」の放送が終了した。

今作は覆面作家集団「GoRA」とKING RECORDSによる企画によって生まれたオリジナルアニメ作品だ。

この作品は「相棒」「師弟」「好敵手」「兄弟」という4つの関係性と「絆」というテーマの元に描かれる切なくも美しい物語である。

今回はこの「AYAKA -あやか-」というアニメについて語りたい。

※あくまでも個人の意見なので間違っていたり解釈違いの部分があると思います。

 

 

あらすじ

八凪幸人は、本土の児童養護施設で育った少年だったが、ある時亡き父の弟子であるという傍若無人な青年・沙川尽義がやってきて、幸人を故郷である綾ヵ島に連れ出してしまう。 七つの島が連なる綾ヵ島は、火と水の龍の伝説が色濃く伝えられ、「ミタマ」と呼ばれる不思議な存在が当たり前のように生息する奇妙な島だった。 幸人は、綾ヵ島の調和を守る仙人であったという父の三人の弟子たちと関わりながら綾ヵ島で暮らし始める。だが尽義の二人の兄弟子である鞍馬春秋伊吹朱の間には深い確執があった。 調和の崩れ始めた「あやかい」島で、幸人が直面する真実とは——

 

 

はじめに(キービジュアル)

この作品を知ったのは夏にどんなアニメがあるのかをチェックしているときで、キービジュアルを見た瞬間にビビっと来た作品なのだ

TVアニメ『AYAKA ‐あやか‐』

キービジュアルを見て最初に「美しい」と思った覚えがある。今となってはどこに「美しい」と感じたのは正直思い出せないが、アニメが終わってもう一度見るキービジュアルはやはり「美しい」と感じるのだ。何に「美しさ」を感じるか、と聞かれると少し答えづらいが自分が思うには、「キャラクターの目線」ではないだろうか。

年長者である沙川尽義、鞍馬春秋、伊吹朱はそれぞれ違う方向を向いている。しかしよく見ると尽義は幸人の背中を見ているようにも見える。アニメの終盤で尽義が幸人をどう思っているかが描かれることを理解して捉えると尽義という男の良さが溢れてくるように思える。

そして幸人と親しくなった一条いばらや福分茶太郎、天乃夜胡の目線にも注目していきたい。

例えば一条いばらが幸人の背中を見ているのは幸人への心配やもしかしたらそういう 感情もあるのかもしれない

建物の上にいる福分茶太郎と天乃夜胡、この二人は作中で春秋の弟子、そして幸人の初めての友達(親友)として描かれる。親友としての立ち位置もあるがこの2人はストッパー、中立的な役割もあると見える。そういう点を考えると建物の上からキャラクター全員を見渡せる位置にいるのだろう。

オタクの深読みのし過ぎかもしれないがこういう見方も面白いと思う。

 

幸人という人間‐自分の在り方‐

幸人は序盤、人と関わることを拒絶していた。それは自分の力を制御できないことが起因している。過去に川遊びをしているときに嫌なからかわれ方をして「気持ち(感情)」が揺らぎ力が暴走した経緯がある。1話で綾ヵ島に来る前の幸人が描かれているがとてつもなくよそよそしくしている。中学の卒業式にも関わらず誰とも話していなかったりするのが人間関係を断っている人間らしい。

綾ヵ島に来てからも基本的には受け身の姿勢でいるが5話で一条さんの落とし物を墓で拾って渡したあたりから割と積極的に行けるようになったと感じる。もう少し細かく言うと一条さんの落とし物を広い尽義さんとGOZに届けに行く道中で茶太郎と夜胡と出会い、一緒に行かないかというところでよそよそしかった幸人に積極性が出てきている。

受け身であった少年が自分から「誘う」というのはとても成長を感じられるシーンだ。 

他にも8話のお祭り回では茶太郎や夜胡、いばらに誘われてお祭りに行っている。こういう部分で友達という存在の大きさと幸人が他人から距離を取り拒絶していた過去からの成長を魅せている。

 

お祭りでテンションが上がっていたのか、少しだけ幸人の力が暴走している。周りの人間が持つ水風船が割れるなどの現象が起きており、幸人はそれに気が付いてすぐにその場を離れた。向かった先は4話で幸人が修行で育てた桜の木の下だ。

そこで幸人は父親である真人と出会う。真人は既に死んでいるが、何故いるのか?

それはやはりこの作品のテーマでもある「縁」があるからではないだろうか。

このときの幸人は真人が生前付けていたダルマのお面を付けている。最終回で真人は命脈内で火の龍を抑えていたと語っている。つまりお面が目印であり、水の龍である幸人の居場所も分かるからこそ出てこれたのだろう。もしかしたら幸人と真人の父親と息子という「縁」もあったのかもしれない。

 

12話で幸人が本土で暮らしていた理由も語られている。

幼い幸人が火の龍に魅入られてしまう可能性があったため、本土で誰とも連絡を取らず隔離するような形になっていたらしい。そして「人間」として育って欲しいとう思いもあったと思われる。

真人の「素性がどうあれ俺が息子として引き取ったからには誰が何と言おうが俺の息子だ」というセリフ、これも「縁」を紡ぐ、関係性を表す言葉だ。血筋は関係なく、ただその関係性を重要視するこのセリフ、このAYAKAという作品においてとてつもなく大きな言葉だと思う。

 

「幸人、お前ちょっと飛んでみろ」

「幸人、飛んでみろ!」

 

かつてそう尽儀に言われた言葉で自らを鼓舞し水の龍になる幸人。

かつて自分の力で誰かを傷つけてしまった、その力を大切な人を救うために使う。

そして

「飛ぼう、今度は自分から尽儀さんを助けるために」

誰かに背中を押してもらうのではなく、自分の力で飛ぶ。1話から飛ばされてきた幸人だからこそ成長というモノを感じられる、これがAYAKAというアニメの良さだ。

 

 

幸人は綾ヵ島を自分のたった一つの居場所と言っている。今までは自分の居場所というモノがなかったor分からなかった幸人の成長であり、人との関わり方が上手くなっている証拠だ。

「父さん、行ってきます」というセリフも深く感じられるのは、自分の意思というか自分という人間を理解し、前に進もうとする幸人の人間としての成長を感じられる言葉だからだ。水の龍でもある幸人だが、最後に高校へ進学することでまだ人間として生きる、そんなメッセージも籠っているのかもしれない。

全12話を通して幸人は自分の存在を自覚し、自分の在り方を考え、自分の足で前に進んだ。そんな八凪幸人の成長を見れたのは視聴者として嬉しく、微笑ましく思う。

 

尽義と生きること

尽義という人間は本当に最悪な男であり、最高の男である。矛盾していることを言っているがAYAKAを見終わった後は全員がそう思うのではないか、と誇張抜きに思っている。本当にこの男、憎めないのだ。

弟であり、弟子である幸人に対しての矢印がデカすぎる。幸人のために自らの命を投げ出せる男なのだ。でも投げ出すことを嫌だと、まだ生きていたい、未練タラタラしているのも尽義という男の良さである。

色んな作品にも「誰かのために命を投げ出す」キャラクターはいるが、大体は覚悟を決めてしている気がする。けどこの尽義という男、覚悟が決まってないのだ。決まっているようには見えるが、まだ生きていたい・遊びたい・未練がある、とてつもなく後悔をしているのだ。後悔というと少し違うのかもしれないが、生への執着心というものがある。この執着の表れが命脈で師匠のクソデカキセルに捕まっているシーンである。死んで命脈にただ流されるのではなく、意地でも生きるという生の執着を見せることで人間らしさを感じる。

尽義というキャラクターを見たとき、最初は「酒カスのヤバい人」「おちゃらけた人」そう思った人が大半だと思う。実際、筆者も最初は「なんだこの酒カス?!」となっていたが、話数を追うごとに印象が変わっていくのがこの尽義というキャラクターだ。

 

1話では中学を卒業した幸人を迎えに来ているが、校門の近くですごい量の酒を飲んでいたり、幸人に「お前ちょっと飛んでみろ」と言って橋から川へ突き落としたり、術で鞄に詰め込んだりとかなりの暴れっぷりを披露している。なんならBパートに水路で出てきたアラミタマに投げ込んだりもしている。

2話では相変わらずまだ「酒カス」という部分がデカく酒代を幸人にたかったり、酔っぱらって術を披露した結果、アラミタマになり問題を起こすなどもしている。

3話では幸人共に一ノ島に来て朱兄にお小遣いをせびったり、串焼き屋に文句を言ったりしている。

このように序盤、3話くらいまでは本当にこのキャラを好きになれる要素が顔面くらいしかないんじゃないか?と思うほどに言動が最悪なのである。しかし物語の中盤に入る辺り4話くらいから印象が変わる。

4話で茶太郎や夜胡と出会い、二人から教えて貰った種を地面に埋めて育てるという訓練をしたときに、暴走したような形で成長させ続ける幸人を見て的確なアドバイスをしたり、手伝うなど幸人の師匠らしい部分を見せ始める。一応2話の最初でもアドバイスのようなことはしているのだが、4話の方が印象も良い。

5話では師匠の墓参りをするなど弟子らしい部分を見せる。

6話でも喧嘩する春秋と朱の間に入り仲裁をするなど何とも弟弟子らしい部分を見せている。

7.8話では尽義の幼少期や師匠たちとの生活が描かれている。

9話では出番がほとんどない。何故ならどっかに行ったので…。

10話では尽義と師匠の話がある。その中で尽義は朱兄も春兄も知らない秘密を師匠とこっそり話すのが好きだったと言っている。そして師匠から「それまで、ちゃんと幸人を守ってやれよ」とも言われている。恐らく、ここで尽義は元々あった幸人への感情が更に大きくなったのだろう。

Aパの最後で尽義さんが皆のもとに来る。そして「へへ、来ちゃった」と言う。

尽義自身、良くと決めていただろうし、覚悟もしていたのだろう。だからこそ、自分でも「来ちゃった」と言ったのだろう。内心どこかで「まだ生きていたい」そう思ってるからこそ出た自分への驚きと皆への言葉な気がする。

そして綾ヵ島の伝説と同じように師匠も師匠でオリジナルに術をアレンジして対抗策を練ってきた。師匠は死に幸人の秘密を知っているのは尽義ただ一人。師匠の残した自らの命を犠牲にして救う術を知ったのも尽義ただ一人。身内がいない尽義は本当に一人なのだ。

だから自分を育ててくれた恩のあるこの島を守ろうと決めた。

 

「その日まで好きなこと、やりたいことしかしないって決めた。太く短く、愉快に生きてやるってな」

 

太く短く、愉快に生きる。

濃い日々を送り短い人生を愉快に全うする。幼い尽義がここまでの意思を持ち、覚悟を決めた、その瞬間を見せられて多くの人が尽義という男を見る目が変わったように感じる。今までおちゃらけた発言をし、自由気ままに生きてきた人間がここまで重いモノを背負っているとは正直思わなかった。ただ愉快なキャラクターとしか、そういう役のキャラクターだとしか思わなかったからこそ感じる、重みを感じた。

しかも10話はこれだけではない。

幸人を迎えに行くのに自分から志願し、迎えに行く尽義。

 

「らしくもなく緊張した。まぁ弟分でもあり、俺の命をやっちまう相手との10年ぶりの再会だ。無理もねぇだろ。」

 

緊張して酒をがぶ飲みしていた。でもこれは緊張を胡麻化すためだったのではないだろうか。確かに普段から飲んでいる尽義だがこのときだけ、酒缶の量が見えるように描かれている。そういう思惑があるように感じてしまうのだ。

 

「どうしようもねぇ寂しがりやの癖に、他人と関わるのを諦めてる。 暗い奴に育ったなぁって正直思った。」

 

「けど、付き合ってみれば結構素直な奴で、笑ってる顔を見るのはまぁ悪い気分じゃなかった。コイツのためならいっかと思った。」

 

「覚悟ならガキの頃から固めていたし、いつ死んでも悔いがないくらい好きに生きてきたし、そう本気で思ってたんだけど…。いざその時が来てみたら自分で驚くくらいブルっちまった。」

 

死にたくない、なんて今更なことを想った。」

 

この語りが重すぎる。幸人への感情がデカすぎる。そう思った、そう感じさせるシーンだった。誰かのために死ぬ覚悟を幼い頃に決め、覚悟をして、いざ守る対象にあって一緒にいたら「死にたくない」なんて思う。実に人間らしく人間臭いセリフだ。

期待されないような生き方をしてきたら、幸人に期待の目を向けられる。

未練にならないように突き放した生き方をしたら、幸人自体が未練になる。

 

「めちゃくちゃ怖ぇけど…死にたくないけど… 俺、この島のことも不出来な弟子で弟の幸人のこともなんだかんだで結局すげー好きなんだよね」

 

そして幸人には代償の話をせずに力を取り戻すか問う。

幸人に責任を感じさせないため。

 

「幸人、飛んでみろ」

 

尽義とい男は本当に憎めない。言わずにしたことも一人で抱え込んでいたことも。けど、弟のために子供のころから覚悟を決めて命を張れる男はかっこいいのだ。

 

 

実際、沙川尽義という男は1度死んだ。死ぬ目に貯めてたツケも払い、身の回りの整理もして自由きままに生きて逝った。ここでAYAKAというアニメに筆者は憎たらしいと感じた。何故なら、青白い顔になった尽義の死顔を見せたからだ。必要以上に「死」を見せないで欲しかった。まだ尽義が死んだと信じたくなかったのだ。そう作り手を憎むほど、尽義という男に筆者も入れ込んでいたのだ。

 

尽義は未練タラタラのまま命を投げた。

そして命脈で師匠のクソデカキセルにしがみ付いていた。

助けに来た幸人にも相変わらず軽口を言うが「生きたい」という生への執着を見せる尽儀は一番人間らしさを感じてしまう。楽しいことがしたく未練タラタラだ!と言えるのがなんとも尽儀らしい。

幼少期は幸人の手を引いていた尽儀が幸人に手を引かれる。

幸人が自分の意思で飛んだように幸人の成長と尽儀の頼ることが出来たという感じもするシーンだ。

TVアニメ「AYAKA -あやか-」

尽儀という男が本当に好きなのだ。人間臭く、男らしく、兄貴分らしく。

カッコ良すぎる師匠としても、命を張るヒロインらしさの全てが好きである。

ただそれだけなのだ。

 

「人間いつ死ぬか…好きなことしてなんぼっしょ!」

 

尽儀がこれからのことを考える、そういうわけではないが死ぬことへの覚悟がないのが人間であり覚悟を捨てた尽儀が人間として生きる、そんなセリフだと感じた。

 

ミタマとアラミタマと生きる

これは主に伊吹朱の話だ。

朱は強くなることが目的になっている。完全にしてることが悪役のそれだが、強くなる目的は「ミタマを殺すこと」「仇を討つこと」である。

伊吹朱が鞍馬春秋と仲違いした理由は主に師匠の死と朱が禁呪に手を染めたことが原因だ。

「AYAKA SIDE STORIES 6」では朱が綾ヵ島に来ることになった理由、邪法に手を染める経緯などが描かれている。朱の両親は朱が8歳の時に死んでおり、事故によるものだった。その後すぐに親戚のおばさん、鬼無里椛に引き取られているのだが、なんとこの人は「邪法の使い手」なのだ。朱は師匠である八凪真人が死んだ後に鬼無里椛の元に弟子入りをして「邪法」を学んだ。

朱が鬼無里椛に弟子入りを希望したのは両親の墓参りに訪れた時である。鬼無里椛は毎年、朱の両親の墓参りに訪れており、その理由をこう述べている。

 

「縁、だから」

「それもある…けど、正確には少し違う。私にとって姉は、彼女のいる世界と繋がる糸だった。」

「私がいる場所とは違う世界。真っ当な世界。そこと繋がれているからこそ、私は堕ちずにいられた」

「私は確かに、『ここ』と繋がっている。私のような人間のにはその事実が重要だ。その重要さを確かめに、毎年一度は訪れている」

 

「堕ちずにいられた」というのは邪法に飲み込まれずにいた、ということであると考えられる。少なくともアラミタマを倒しその力のようなものを身体に取り入れているのだから、何かしらの異変があるはずだ。朱の右手もそうだがあのような「敵の力を取り込み、力を得る」という行為には代償が付き物であることが多い。

 

すこし逸れるがこの邪法、似ているモノが別作品にある。それは「双星の陰陽師」というジャンプSQにて連載中の作品に出てくる「ケガレ堕ち」というモノだ。この作品はケガレと呼ばれる禍野と呼ばれる異世界に住む魔物のような生物とそれを祓う陰陽師の物語だ。筆者は小学生の時から大好きで今もジャンプSQを毎月購入して読んでいるが引き延ばしが酷くて早く終わらないかなとか思ってる。

主人公の焔魔堂ろくろは幼少期住んでいた施設で悪童が陰陽師の本拠内から持ち出した禁呪「ケガレ堕ち」の儀式に巻き込まれ主人公以外の子供たちはケガレに成り果て、主人公だけ助かるという話がある。助かるというのはケガレに成り果てなかったというだけでろくろの右手はケガレに侵されており、右手だけケガレになっているというような状況になっている。(実際は少し違うor他の理由があるので割愛する)

TVアニメ「双星の陰陽師」1話より

話を戻すが、このように意図的や偶発的に関係なく人間本来の力じゃないものを力としたときに飲み込まれる(侵される)というのはよくある話だ。実際、伊吹朱も赤鬼のような姿になっていた。

ここでいう鬼無里椛の「縁」「繋がり」というのは「心が人間であるかどうか」だと筆者は考える。毎年、亡くなった姉と義兄の墓参りに来ることで自分が「まだ人間であるかどうか」を確かめているのだろう。人間であれば亡くなった姉や義兄のことを悲しむのではないだろう?もちろん例外もいるだろうが、自分が亡くなった人間のことを想い、悲しむことが出来るかという点で自分の存在を人間として認識していた、と。恐らく伊吹朱とおばさんが使用していた邪法は「人との縁」や「人間であること(人間性)」が大事なのだろう。だから10話で火の龍と戦う伊吹朱はこう言った。

 

「人間如きが龍に抗うんだ… 何かを捨てなきゃ守れねぇってもんだろッ!」

 

そう言った伊吹朱の姿は赤鬼のような姿になっている。ここで朱が捨てたのは人間の姿から鬼のような姿になってることから「人間であること」と容易に想像がつく。さらによく見ると鬼のような姿になった朱の額には目のようなものがある。これはアラミタマの核部分と同じだ。つまりこの状態の伊吹朱は「人間であること」を捨てアラミタマになったのだと考えられる。

TVアニメ「AYAKA -あやか-」10話より

伊吹朱は最後の戦いでアラミタマ化していたが幸人が水の龍の力を尽義の術で取り戻してからはいつもの姿に戻っている。まだ完全にアラミタマ化してなかったのかもしれない。その根拠として人語を介しているからと筆者は考えている。描写や説明がなかったので想像でしか語れないが、人が邪法を用いてアラミタマ化した場合はもっとアラミタマに近い、アラミタマのような姿になるのではないだろうか。

 

人間 →  鬼 → アラミタマ

 

上のような順序があるのかなと想像している。

なので鬼のような状態でいた朱はまだ人間に近く、春秋やいばらとの「縁」があった。

だから寸前のところで完全にアラミタマに成ることなく、人間の姿に戻れたのではないだろうか?

これは全て筆者の想像なので真偽は分からないがこういう考え方もあると思って欲しい。

 

そして朱は右手の力を最終回でも使っている。それは命脈に飛び込み尽義を助けに行った幸人と助けられた尽義を命脈から助け出すところだ。

このシーンが筆者は本当に好きなのだ。

何故なら「伊吹朱が邪法の手を染めて得た力で大切な人を助けることが出来た」というシーンだからだ。だから朱は「今度こそ助けるッ!」と叫んだのだ。

朱の右手は間違いなくミタマorアラミタマに近い存在になっているのは見れば分かる。そしてアラミタマとは何かを思い出して欲しい。

公式のキーワード解説にはこのように書いてある。

 

ミタマとアラミタマ

命脈を流れるエネルギーの塊が地表に出たもので、綿埃のように島中をふわふわ漂っている。モノや動物に取り付いたりすることがあり、たいていは不具合を起こすくらいだが、周りの悪い気や悪意を吸い込むとモンスターのようになり暴れ出すことがある。そうなると専門家しか祓うことはできない。
通常時は「ミタマ」、暴走時は「アラミタマ」と呼ぶ。

 

そう、ミタマorアラミタマは命脈に限りなく近い存在であり、朱の右手は命脈を流れるエネルギーの塊を右手に宿しているい状態なのだ。つまり朱は命脈に1番近づいている存在である。これは朱が邪法に手を染めていなかったら決して出来ないことだ。確かに朱は道を外れた力を得たかもしれない。だがその力も結局は使用者の意思次第では誰かを助ける力になる、そういった部分がAYAKAの良さだと思う。

朱が師匠の死や考え方で春秋とすれ違い得た邪法の力が誰かを助ける、正確には「縁」がある家族を助ける力になっているという作劇の上手さを感じるのだ。

 

これも考察程度にはなるが、朱が命脈といったエネルギーの本流に手を伸ばし、命脈を彷徨う幸人の手を掴めたのはやはり「縁」というモノではないだろうか。

朱の第二の師匠である鬼無里椛は墓参りをすることで「人間であること」「縁」というモノを大事にしていた。それはアラミタマを食らい力を得ることで人間を辞めるという部分をある程度、保つ糸のようなモノ(セーフティ)なのだろう。朱は幸人や尽義と話したり、食事をしたり「縁」を紡いできた。だから「縁」のある幸人の手を掴めた、そうであると筆者は確信している。(そうであって欲しい)

 

 

最後に

師弟も相棒、好敵手、兄弟にも血筋は関係ない、一緒にいた・暮らした・過ごして重ねた年月が「縁」を結び繋ぐ。この作品はそういう積み重ねた上に出来る関係性の見せ方、構成が上手いアニメであったと心の底から思っている。

そしてどのキャラクターも良い奴で、誰かのことを想っていて、誰かのために本気になれる奴ばかりだった。またキャラクターが心身共に成長する姿を美しく丁寧に表現したアニメであった。

設定・キャラクター・物語・音楽、どの分野から見ても最高であり、楽しかった。

その事実がこの作品への評価である。

 

 

TVアニメ「AYAKA -あやか-」に携わったすべての関係者の皆さん、本当にありがとうございました!!

 

 

 

   愛おしい

 

                                              懐かしい

 

            激しい

 

                        楽しい

 

          狂おしい

 

                     色んなものが混ぜこぜな

 

 

                       どこまでも…

 

            あやかい島で。

 

 

ayaka-project.com